「彼女に関する十二章」中島京子(中央公論新社) [本]
今日はわりと涼しかったですね。でも、なんだか1日やる気が起きず、だらだらと過ごしてしまいました。
午後もお昼寝などしてしまい、先ほど起き上がって掃除機かけたり・・・。
今から(もう6時半だけど)ブログ書いたら買い物に行ってきます。
もちろんセール狙いです。
新聞の書評欄か何かで知って、読んでみました。
50歳の聖子はある日、生理がしばらくこないことに洗濯物を干しているときに気がつき、「どうやらあがったようだわ」とつぶやく。
そんなシーンから始まるこの作品。
編集プロダクションを経営する夫の守が、仕事で伊藤整が戦後に書いた「女性に関する十二章」についてのエッセイを書くことになったということから、なんとなく聖子もこのエッセイを時折読むことになります。
聖子は10年ほど前から、税理士事務所で週3日のアルバイトをしており、息子の勉は春から関西の大学院に進学。
特段大事件が起きるわけではありませんが、普通の家庭に起きるだろう、普通の問題はポツポツと起き、その度に、聖子は50歳らしい分別を持って対応するわけですが、そこに挟まれる、伊藤整のエッセイ。なんというか、含蓄が深いというか、「は?」みたいな内容だったりすることもあるけれど、聖子はそこから読み進め、「いや、現実に即すると意外とこういうことを伝えたかったのでは?」なんて解釈したり。
中島さん、いつもどおり面白いなーと思いながら読んでいたのですが、最終章で、なぜだかわたしの涙腺が崩壊。
今、読み返してみたら別にそれほどの感動的なシーンでもないのですが、ちょっとわたしも悩み事がありまして(それは今も解決してなくて先延ばし中なんだけど)、なんかわたしの迷いというかそういうツボにバチっとはまってしまったんですね。
例の夫のエッセイの仕事(実際はとある企業の広報誌の制作をまるごと引き受けるというわりとおおきな仕事だったらし)が、発注先のお家騒動のあおりをうけ、なくなってしまった、つまり経済的危機に瀕し、息子の勉が同棲していた相手が妊娠し、突然大阪から状況してきて聖子に相談に来た、そんな1日の終わりに聖子が考える下記のシーン。ちょっと長いです。
夫は缶ビールの最後の一口を喉に流し込むと、「だいじょうぶ。いままでだって何回もこんなことはあった。なんとかする。勉に子供も生まれるしね。思い出してみろよ、たった数ヶ月前まで、きみの悩みは、息子が生涯童貞で終わるんじゃいないかってことだったんだ。明日を思い煩うのがいかにバカバカしいかってことだよ。明日のことなんて、誰にもわかりゃしない」聖子よりは自分に言い聞かせ、夫は妻の肩をぽんと一回叩いて、こんどこそ寝室に引き揚げて行った。聖子は一人ダイニングに残されてぼんやり考えた。明日は今日予想できるものじゃない、とは、誰にも否定できない真実だ。守の言う通りで、明日という日に意味があるのは、今日とは違うことが起こるからなのだ。(P250より抜粋)
いやー、なんだかそうだよな、ってストンと胸に落ちてきたんですよね。いくら未来について悲観的な見通しを立てて思い悩んだところで、わからないんですよね。
まだその境地に達することはできていませんが、なんだかわたしの心も少し軽くなった気がしました。
それにしても渋い作品をモチーフに選んであるなと思っていたら、この「彼女に関する十二章」も「女性に関する十二章」もどちらも「婦人公論」連載のものでした。おそらく企画ものですね。
ちなみに作中で聖子さんもタブレットで読んでますので、当然のようにkindle版もあります。
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